昭和46年08月07日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
ここのところの一番大切なところというのは、どこだろうかとこう思う。御理解第四節はもう、何十回頂いたか分りませんがね、繰り返し、繰り返し頂いてる訳なんですけれども、一番大切なところはどうだろうかと。皆さんどう思われますか。成程分らせて頂く上では、金光大神は、天地金乃神様からも、私共氏子からも双方からの恩人であると言う事がわかりますね。
いわば天地金乃神様の恩人とまでという言葉をもっておおせられておられる位ですから、成程まさかの時には、天地金乃神様と呼ばんでも、金光大神助けてくれと言えばと仰る。金光様ととなえれば、おかげ頂ける事もわかりますね。だから前後はそう言う事の説明なんです。だから一番大切なところは、何というてもですね、金光大神の言う事にそむかぬように、よく守って信心せよと言う事なのであると思うのです。
ここんところが一番大事。ところがその一番大事なところが、私共おろそかになっているところはないでしょうか。時々は守れるけども、普通ではよいかげんにしているという事ではいけんのです。よく守って信心せよと言う事は、それをもう自分の掛け守りにするという位大事にするのである。どうでしょうか。教祖金光大神様は教えて下さる。まあ合楽ではそれをいうたら、御神意の深さ、広さというものを御理解によって、こうして頂くわけです。何かが身についてくる。
これだけは金光大神の言葉にそむかぬようにもう、自分のものになっておる。自分の血、肉になっておるものがあるでしょうか。案外なっていないのですよ。金光大神がいう事に叛かぬように、いうならば、金光大神の教えにそむいてばっかりおると言う事になる。こう言う事ではおかげは受けられませんですね。本当のおかげは。只時々行じるとか、時々思い出したようにその事を守るとかと言う様な事ではいけんのです。
教えられた事がやはり、自分の身内の中に、やはり血の中に、肉の中に入りこんでしまわなければいけない。金光大神の言う事というが、沢山いうておられます。沢山御教え下さっておる。よく守るというて守っておるだけではいけない。よく守って信心せよとあります。その事を守って信心せなければならない。教祖の御教えが、これだけは自分のものになっおると言った様なものが何かあるだろうか、それがその自分のものになっしまっておるというだけではまだいけませんもんね。
そのなった上に信心せにゃいけん。そうなんです、信心せにゃいかん。よく守り信心せなきゃいかん。このお道の信心では、御地内をみだりに汚すなと、本当に御地内をみだすなと言う事に、汚さないという事に本気で一生懸命にならせて頂く。これだけは身についておると、案外ついてない。雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うてはならぬ、神信心は。ところが仲々身についていない。今日は雨でしたけん、風でしたけん、それが口実になってお参りしない。
まあ例をあげれば切りのない事でしょう。そういう例えば金光大神の言う事にそむかぬよう、よく守って信心せよ。なら御地内をみだりに汚さないという事は、何についても御地内だけは本当に汚さんですむ。外で例えば、つばを吐いたり、汚いものを御地内に、それは何故か理屈はわからんにしてもよいのである。汚すなとおっしゃるから汚さんというだけである。
言う事を聞く、理屈がわからん、合点しなければ承知がいかんというのではなくてその辺に私は信心に直さが求められるわけであります。どういうわけで金光様の信心すれば、つばも吐かれんかといわずにね、それを守る。そういう守る事がです、身についただけでもいかんのです。それを守って信心しなければ。どういう信心するかというと、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬという信心をする。
私はこの二言の中からでもですね、成程これを守るならね、おかげ頂くじゃろうと思いますね。又はお徳を受けると思いますね。色々教えておられる。それを例えば一事でもよい二事でも、自分のものに本気で徹底して、その事を頂きぬかせて貰うという、いわば信心ぶりというものが、身についてしまう、だけではない守って信心する。そこにですね、私は信心がいよいよ尊いもの、有難いものになってこなければならん。いわば勿論尊い、有難いものですけれども、楽しいものになってこなければならない。
今日私はこの四節を頂いてですね、一番大事な所と言う事を思うてみたら、是はやはり金光大神の言われた事に、叛かぬ様によく守って信心せよと言う事だとこう思うた。そしてどういうふうに頂こうかと思うたら、今御理解を開かせて貰ったら御地内をみだりに汚すなよとね、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならんと言う所を頂いた。この辛抱こそ身に徳を受ける修行である。そこに私共の信心の楽しみというか、喜びというかそういうものをね、本当に身につけなければそれが出来んのです。
先日の、一昨日ですかね、雨風で非常にお参りが少なかった。やはりあの雨ですからね、風ですから、けれども私はね、信心に一番必要なものは一途なものです。本当におかげを受ける、徳を受ける人はもう一途です。その一途なものがあるからつら貫かれるのです。然もそれがです、つら貫かれるだけでもいかんのです、よく守ってというところがなからなければいかんし、なら、よく守ってだけではいかん。つら貫かれるものがなからねばいかん。守って信心せよ。
一昨日の昼から、久富先生が見えてませんでしたからね、それで昼から四時の御祈念まで。ですから、五時頃まで丁度ここに座っておりました。もう本当に昨日、一昨日ばかりは誰も参ってきませんでした。丁度一番ひどいといわれる時ですから、丁度四時の御祈念にかかる十五分前ですから、三時半過ぎだったでしょう。あの嵐の中に、高芝さんと綾部さんが参って見えました。
私はその時えらい感動しましたですね。例えていうならば、閑散として、お客さんも何もないという時にお客さんが入ってきなさったら、まあ、嬉しい気持ちがするでしょうね。誰もお参りがなかった。まあいうなら五時間あまりの中に、お参りがない。そこに二人がお参りになったから嬉しかったのではなかったようにある。昨日お参りしようと思っておりましたばってんか、あの雨でしたから、あの嵐でしたからと、とうとう御無礼しました。久富先生が昨日お参りしてきよりましたら。
丁度大城橋の土居の堤防の所で、突風に遭ったものだからね、そうして突き飛ばされなさった。それで腰打ってからどんこん腰が痛してこたえんものじゃけん、とうとう御無礼して帰りましたと。帰りましたというて大城橋まで出てきとるけん、こっちさえ帰ってくればよかじゃろもん。それば北野の方さえ帰ってある。あれが一途な時には絶対合楽に来るですね。半分以上は来とるとじゃけん。
それでふき落とされて腰打ったとそれでとうとう御無礼して北野に却って、北野の方に帰らずに合楽の方へ帰ってこにゃいかん。もう半分道は来とるとじゃから同じ事じゃろう。這うて帰ろうごとあったっちゃ、這うてからでも来てみなさい。それこそ神様がどれ程感動を見せなさるかわからんと私は思う。ほら今日はあんた這うて来たのというてから、喜びなさるに違いない。
信心しよる人は、私はそう言う事だと私は思うです。楽な方へ楽な方へ便乗する信で心はです、金光大神がいう事にそむく事になりゃ、信心しよると言う事にもならんのだ。それこそ雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃれば尚可愛いという。そういうものが、ぐいぐい神様の心に食い込むと私は思うですね。神様の心の中に、神様が本当にお喜びになるそういう心をです。いやが上にも、神様の心の中に飛び込んでいくといった信心はそういった事ですからね。
信心は有難いもの、尊いもの、又楽しいものにしておかねば出来んと言う事。金光大神がいう事にそむかぬように、御地内をみだりに汚すなという、もう徹底して汚さない、汚さないだけじゃない、清めていく信心。あのね理屈をいうと馬鹿のごとあるですよ。どういうわけで金光様の信心しよりゃ御地内は汚されんかと、どう言う訳じゃないけど、金光様が汚すなと教えておられるからというより外はないです。
私は福岡の修行中は、御地内を汚すのじゃない、いわゆる清めてまわった時代があります。長浜町から荒戸の教会、あの裏通りの、すのこ町というですかね、あの通りまだバラックぱっかりの時分でした。あの通りに下駄をを拾った時分も、あの通りでは随分下駄を拾いました。御地内を清めて廻りましたのもあの頃でした。それが本当に清めようという気にならして頂いたら本当に汚いものがまき散らかしてあったり、垂れ散らかしてあったりするのに出合うのに驚きました。
まあ、一つ驚きました事はですね、もうその近所には必ず御地内を清める場合には例えば箒やらおきすくいのごとあるともありますよ。もう本気になったら、もう、新聞やら藁のごとあるのが落ちとるです、必ず。本気で清めようと思うたら、神様が本気で清めさせようとする働きがそこに感じましたから、成程、神様がね、理屈はわからんなりに、その事が御喜びの事であるとわかりました。自分で穢す汚すのじゃない 人が何も知らない人達がです汚しております。
御地内を穢しとります。何も知らないわからない人達の為に、御詫びをします。お詫びをしながら清めます。私はね御地内を穢すなよと言う事は、反対に清めるところまで行かなければいけんと思います。そういうものが何かしらん身について来るというか、金光大神のいわれる事を成程守る。その上に信心致しとります。もう私共の場合、朝晩お参りすると決めておりましたから、まあどんな事があっても参りました。それこそ雨やろうが嵐じゃろうが、大水じゃろうが。
例えば、千代田さんが見えとりますが、千代田さんのとこに私が修行中に取り上げの加勢に二、三日行った事があります。もうそれは馴れん仕事ですからくたくたに疲れますよ、それでもちゃっと皆さんがおきられる前に起きて、西郷から善導寺まで必ず参りました。もう、今日は加勢に来とる先じゃけんです、そげな事は私には許されませんでした。そして自分の方の前は素通りしてからつ-っと帰って千代田さんところに参りました。友達が亡くなって、お通夜にやはり参りまし。
お通夜に行って、夜の御祈念に参っとりませんから、もう朝方でした、もう一時間もすれば朝の御祈念だったから、参らんなりませんでしたけれども、夜の御祈念に参っとらんから、私は矢作から家の前を素通りして、やはり善導寺に参りました。帰ってから又すぐ朝参りをしとります。まあ、いうなら馬鹿のごとあるですね。けれども私はそういう信心でおかげを受けとります。理屈じゃないです。よく守る事も守りました。同時によく信心する事も信心しました。
本気で私共信心させて頂こう、本気で私共が御地内を清めさせて頂こうという気になると、ちゃんとそこに清めさせて頂く道具までがその近所にはあると言う事ですよ。これは私の体験です。それかというて、今私がスコップを持って、そこらを綺麗にしてさるくと言う事ではないですよ。そういうものが、これについてしまっているのです身に。しかも神様と私との間にです、こんなにも間違いのない、例えば守ろうとすれば守らして下さろうとする働きをです。
私共は感じとってしまっている所まで、私は守らねばいけんと私は思います。金光大神がいう事に叛かぬようにというのは、叛かぬと言う事ですから、もうはいという外にないのです。昔の偉い人達が、家来に言う様なものです。右にせよというなら、はぁっというてそれが叛かぬ事です。ちょっと位よかろうというのは、それは叛かぬじゃなくてそれは叛く事になるのです。俺の言う事に叛くかと言う事になるのです。
そむいたからというて、大きな声を出されるわけではなからなければ、お叱り下さるわけではないのです。おかげは受けられるのです。けれども、こちらはおかげを受ける方の側です。お徳を頂かねばならぬ方の側です。神様は大きな声を出して、お叱りになるわけではないのだけれども、こちらが叛かぬようにという精神をです、作らして頂くという事、守らして頂くと言う事と同時にです。
それを信心せよとこういう、守って信心せよと言う事。それには信心がいよいよ尊いもの、有難いもの、楽しいものになって来なければならん。雨だから、風だからとそれを口実にする事なしに、それこそ吹き倒されたっちゃ、やはり前の方にしか進まんと言う様な生き方に、確かに神様は動きなさるなとこれは私の体験からです。久富先生の例をとりましたが、途中まで来ておる。吹き倒されて腰を打って痛か、ごそごそ這うようにして家まで帰ったと。
例えば這うて帰ったかどうか知りませんよ、けども腰が痛かったとこういわれる。けど這うて帰ったに致しましても、途中まで来とるんだから、這うて合楽の方へ来たらどうかというのである。来てほしいのじゃないです。けどそこに、それこそ濡れておじゃれば、尚可愛いという、神様の特別の働きが表れてくるのです。本気で守ろうとすると。神様の働きをすぐ側に、汚物なら汚れ物があるその側に、汚れ物を清掃させて貰う 道具があるように、守って信心するという気になって。
いわゆる、それを口実ではなくて、そこのところを押して、一途の信心をさせて頂くところに、今ごろこういう話をしたら、古風な話になるでしょう。そういう古風な話は今の金光教ではあまり受けません。第一御地内をみだりに汚すななんというのは、いよいよ軽く見られております。 けれどもね、私はそれでおかげを受けて来たのです。守るという事においても、信心するという事においても、そして私の体験からです成程、濡れておじゃれば尚可愛いという働きをです。
感じとらせて頂いて、それが溜り溜まってのての今日の私の信心になっておるんだという事。御理解を一つ、只ここに金光大神のいう事にそむかぬよう、よく守って信心せよということろにだけ一つ焦点を置いて、聞いて頂いたんですけれども、お互いの場合ここんにきをね、何かおろそかに、よいかげんになっておる。それをして、当たり前の考えのような向きがありわせんでしょうか、折角させて頂くなら一途のものをそこに、神様に向けていきたいと思いますね。
どうぞ。